水のようでありたい
あなたにとって旅とは?旅が特集になっていた雑誌で旅人が答えていた。心の中を写す鏡だって、同感だった。だけど僕には“鏡”というワードは思いつかなかった。伝えたいことを僕はなかなか表現することができない、日本語がヘタクソなせいでもあるのだけれど…自分が良い状態でいるときには、良い巡り会いがやってきて、悪い時には良くないことがやってきた。外側の世界には、自分の内側が映し出されている様だった。旅には自分が“生きている”という感覚があった。リアリティがあった。エクスタシーがあった。その体験はどれも言葉を超えていて、それは言葉や文字では上手く表現できないことが分かったんだ。悩んだ、そして自分という“存在”として表現しようと思った。
あるがまま
水のようでありたい、その言葉に初めて出会ったのは無印良品の広告、そして旅の中にその言葉を発見した。私があれをします。これをします。どこに行きます。なんて、宣言や予想することはもうやめよう流れ続けよう、止まってしまったら腐ってしまうから、水が流れていくように自然に身体を任せよう。
ただ水のようでありたい
2週間、実家の近所の農家の手伝いをやった。ジャガイモの箱詰め、長芋の鉄パイプ抜き、牛蒡の収穫、太陽まみれと土まみれになる、背中が痛む
11月14日、空を飛んで沖縄へ700kmの文明の最速で。
築地、神宮、まつり、タワー
東京築地、独特の熱気とむせ返る匂いと勝負師のような目をした魚屋の商売人、アジアだ!
明治神宮、神様のことは全く分からないけれど、日本人の魂が住むところだと思う。緑のバイヴレーションを感じた。ごった煮カルチャーな街の中心にあるのがまた面白い。
まつりと森、ここはアジアの何処だろう?、カラダとココロが解放された。何処かの惑星を旅してる気持ち。
京都、気取らない都会にそびえるタワー、鉄の塊
そして終わりのない悲しみ
熟れを通り過ぎたバナナを4本潰して、全粒粉と重層を混ぜて型に流し込んでオーブンで焼いた。牛乳と卵と油を使わないやつ、甘い香りがした。ラオスでよくバナナを食べていたことを思い出した。花がたくさん咲いていて、人々もカラダから笑っているような花みたいな人が多かった。ブタが「ブヒブヒ」鳴いていてニワトリが走り回っている土の匂いのする暖かい景色をバナナブレッドに混ぜ込んだ。甘ったるいバナナが悪かったのか、イメージが悪かったのか、焼いた2日後には怪しい匂いを放ち始めた。
髪が伸びてきたから簪を作ろうと思った。桜の木を鑿で削った。真っ直ぐにならなくても、簪ならそれらしく見えそうで思うままに削る。木は意識が宿っているようで面白い、玄関先でコリコリと削っていると近所の人から、誰にあげるの?なんて聞かれた。自分にですって言うのは少し恥ずかしかった。
道を歩き続けていると“ガイド”と呼びたくなる人やものと出会う事がある。彼らはそれぞれの時間と空間で今日を生きるための指針を与えてくれる。暮らし、野良仕事、料理、哲学、旅、様々なガイドと出会ってきたつもり。そんな人達を“人生のガイド”と呼びたいと思った。でもよく考えてみると、出会うもの全てはガイドの様な存在かもしれないとも思えた。だからみんな全て“人生のガイド”と呼びたい。
目で見える世界に段々と興味が薄れてきた。視覚よりも、他の感覚の方が偉いというか、重要な位置にある気がする。見えない世界というか、誰かや自分の内側の世界の方がもっともっと面白いと思う、音の世界とか。
労働トリップへ行きたい、沖縄のサトウキビ狩り。冷えている、空気だけじゃなくて色々なことが、冷えてきているんだ。温かいところへ行きたい、迷い続けるだろう、ずっとずっと迷い続ける。11月に飛び出す
The Smashing Pumpkinsーメランコリーそして終わりのない悲しみ
音に合わせてカラダを揺らす
滋賀県の琵琶湖の西、山の奥地にまつりがあった。ロックフェスともレイヴとも少し違う、それは祭り、集まる人々は、焼けた肌、エスニックな服装、素足、サンダル、子供たちは裸、自由と旅と音が好きな人が多いと思う。ドレッドの長い髪が頭の上でグルグルな人もいた。チベットみたいな景色、宇宙を感じる夜、土から生まれてきたような人々、ここはアジアの何処だろう?と思ったりする。
時々誰かが聞く「いま何時?」ってそしたら誰も分からない、何でかって?それは誰も時計を身に付けていないから、時計の針の動きは感じない空間、日にちや曜日も分からなかった。太陽の動きと月の満ち欠け、それだけはなんだか感じとれた。
雨がザーザー降る中で森のぽっかり空いた空間に音が響く、ステージ前のフロアはいつも泥だらけにぬかるんでいた。人々はずぶ濡れに泥だらけになってカラダを揺らす、踊る、僕がスタッフをやっていたカフェバーのカウンターから見えるステージとフロアの景色、泥だらけになって楽しむ人たちの後ろ姿が僕は大好きだった。音が鳴らない日にはステージのある森の空間に自然の音が聞こえて、音が鳴らない日だってちゃんと良かった。
そんな日々、ふっと思い出したことがあった。去年、香川県のファンキーな米農家の奥さんに言われた言葉「ヒッピーにだけはならないでね。」そのときは言葉の理由が分からなかったけれどもヒッピーだけでもきっと良くないな、って今は少し感じる。バランスが大事だろうと、その日は“バランス”ってワードがテーマの一日になってアメリカ人のリーと2人で、バランス、ってばかり言っていた。「毎日がまつりでも良くないね」「バランスだよ」なんて
歌い、踊り、陽気になってカラダとキモチを解放。アタマばっかりは良くないね、バランス
チベット、宇宙、すべては幻影
5月に東京、護国寺でチベット人のお坊様のお話を聞いた。インドから来た彼の話は、「生きる」ことのベーシックな部分には少なくとも苦しみがあり、全ての生命に共通する痛みである。だから祈るときには、自分も含めた全ての生命のために祈りなさいと言った。
“歌い、踊り、陽気になってジブンを解放する祭り”に行くため、東京から鈍行列車に乗り継いで滋賀、大津市の外れにある小さな駅に着いた。朽木という山の奥地を目指し路上で親指を立てる。道路の温度計は38℃と表示していた。熱いし汗が止まらない、けれどあまり時間が経たないうちに男が乗った軽トラが止まる。町から離れ、山を越え、集落を越えまた山を越え…ここで合ってるかな?と心配になりそうな曲がりくねる道が続く、途中までしか行かないけど、なんて言っていたが、祭りのある集落まで男は車で乗せてくれた。この集落の上流には民家は無く、限界集落の限界と言える。魔物が出そうな深い森、谷を流れる川、チベットのような景色を感じた。夜は闇が深くて、森を見るともっと黒が深くて、空には星が奇麗に光っていて、月が浮かんでいて、ここは宇宙だよ。宇宙チベット
時間には誰も逆らえない、遅刻は重罪だと幼い頃から刷り込まれてきた。人間は時間という重苦しいシステムに操られていて、そこに生きずらさがあって、アタマが全てで、カラダの自由や快感が奪われている。過去や未来にとらわれず今という瞬間を楽しめ、と最近読んだ本の内容はこんな感じだった。疑問が湧いたから「人間の本番はいつだろう?」と祭りで会った男に尋ねた。「マーヤー」とその人は答えた。“マーヤー”はサンスクリット語で“幻影”見えるものすべては幻影であり、人間は等しくそのマーヤの中に生きているという、インド哲学の言葉。
ある日、森からチョロチョロ出る湧き水をポリタンクで汲みにいって、水が一杯になるまでの間、森の方をボンヤリ眺めていると、声が聞こえた。「泣くな、笑え!」って、それはジブンの内側の声だったのかもしれない、でも一つに繋がった気がした。森が教えてくれた僕が解釈する今のところの生きることへの回答。泣くな、笑え!